ポール・ニザン

リセから高等師範学校にかけてサルトルとともに学ぶ。1926年に学業・執筆活動を中断して政治家の息子の家庭教師として大英帝国の支配下にあったアデン(イエメン共和国)に滞在し、1931年に帝国主義・植民地主義、資本主義的搾取・疎外、ホモ・エコノミクス、ブルジョワジーを辛辣に批判する『アデン アラビア』を発表した。1927年に共産党に入党。ソビエト連邦が国際連盟に加盟し、反ファシズム統一戦線の結成を提案するなど対外政策を大きく転換させた時期に同国に滞在し、共産党の機関紙『リュマニテ』、『』の国際政治欄を担当するほか、国際革命作家同盟の機関誌『』のフランス語版、国際革命作家同盟のフランス支部として設立された革命作家芸術家協会の機関誌『』を編纂した。
小説家として『アントワーヌ・ブロワイエ』、『トロイの木馬』、『陰謀』の3作を発表し、社会主義リアリズムの作品『陰謀』は1938年のアンテラリエ賞を受賞した。
第二次大戦下、英国軍の通訳・連絡将校としてダンケルクの戦いにおいて戦死した。独ソ不可侵条約の締結とこれに対する共産党の態度を批判して離党したために戦後、トレーズ書記長や他の共産党員から裏切り者と非難され、サルトルらが抗議した(ニザン事件)。作家としても20年にわたって忘れ去られていたが、1960年にサルトルが序文を付した『アントワーヌ・ブロワイエ』が再版されてから再評価が始まり、日本語訳も1966年から1975年にかけて『ポール・ニザン著作集』全9巻・別巻2冊が刊行された。
歴史学者・人口統計学者のエマニュエル・トッドは孫(娘アンヌ=マリーと作家・ジャーナリストのの子)にあたる。 Wikipediaによる
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